ゴトウのプロフィール

「社会科教育研究」のすそ野は大変広いですが,ここでは私の主な3つの問題関心を紹介いたします。

 

また,なぜこんな研究や教育を考えるようになったのか,より詳しい経緯については,右側の「どんな私が,何のために,何を研究するのか」をご覧ください。


社会科教育の「本質」とは

私の研究の問題関心は,素朴に,社会科教師として教育課程や授業をもっとうまく実践したいというところからスタートしています。ただ,教育実習を終えた時点で,闇雲に授業を作り続け実践経験を重ねていくだけでは,この願いは叶わないのではないか,とぼんやりと思っていました。

 

例えば野球なら,もともとの体格や運動能力に恵まれていても,試合に出さえすれば上手くなるのか,勝てるようになるのかと言ったら,きっとそうとは限らないですよね。基礎体力作り,バッティング・ピッチング・守備の練習,ルールの理解,チームメイトとの意思疎通,相手チームの分析,食事管理,休養…と試合前後"も"色々やるから上達するのではないかと。

 

なので私は,遠回りかもしれないけれども,学部3年生の後期には,社会科とはどのような教科なのかと,自分の単元・授業作りの上での指針,核になるものを持ちたいと思いました。あるいは,子どもたちに社会科を学ぶ理由を聞かれた時に,ちゃんと言葉で,また自分の実践で応えられるようになりたい,と。(もちろん,日々バッターボックスに立っておられる方からすれば,「何を悠長な」「それは経験を積んで得るものだ」というご意見もあるでしょう)

 

こうした問題意識を,今現在の私が整理していうと,次のようになります。

 

「私たちは,日常生活を営んでさえいれば,「社会」についての知識を得たり,その社会で生きていくための価値観や常識を身につけたりしている。一方で,私たちは社会の全てを知ることはできない。知ることができたものも忘れていく。では,なぜわざわざ学校教育で,一つの教科を設けて,社会のことを勉強しなければならないのか。社会科は,どのような資質を身につけさせるために,どのような教育課程,単元,授業を行う教科であれば,勉強する意味や意義があると言えるのか。」

 

思い切って一般化すると,日本の社会科教育研究は,これと同様の問いをどこかに持っていて,直接的に,間接的に,多種多様なアプローチで応えようとしてきたのだと思います。

 

私の場合は,この問いに対して割と直接的に,卒論・修論・博論で検討してきました。


社会科教育関係者の「思想」とは

修論から博論に向かう中で,本質は「何のために」あるのかなぁと思い始めました。

それは,私自身の高校非常勤での経験や,現場経験豊富な先輩院生の影響があると思います。

 

一つの本質論を念頭に,一年間同じスタイルの授業を貫くことはできるのか,またそれは「いいこと」なのか。

あるいは,なぜ社会科にはいくつもの本質論が提唱されたり,社会◯◯科,◯◯主義社会科などといった立場がいくつもあるのか,と。 

 

複数の本質論や立場があることは,「誰」にとって,どんな意味や利益があるのだろう。このことは,どう捉えられているのだろう,どう捉えればよいのだろう。

本質論を提唱する「人」,本質論を受容する「人」,本質論を加工?する「人」…がいるという前提に立ったわけです。そこで,練り上げられた純粋なものとしての本質があるとすれば,本質論を取り巻く思考様式(ミクロには本質を構成する部分として,マクロ・メタには研究者(個人)の本質の捉え方として)みたいなものがあって,それが実際の研究活動や教育実践では重要な働きをしているのではないか,とイメージしてみることにしました。さらに例えるなら,カレーやおでんなどの煮込み料理を考えてみてください。じゃがいもや人参,鶏肉,大根やこんにゃく,卵などの具が本質で,その間を満たしているルーやおつゆなどが思想です。思想は個人的な教育経験や思い入れの影響も受けます。名古屋の味噌おでんだと,おつゆも具も味噌味になるようにです。研究誌上で語られる教科のあり方,本質,授業理論などは,しばしば教師や研究者の経験や価値観に咀嚼されているということです。

具体的には,博士論文「アメリカ社会科教育思想研究 社会科本質論の包括的解釈のパラダイム」で,「本質」は研究活動をしていく上でどのような役割を果たしているのか,それはなぜかという視点で,アメリカの社会科教育の研究者の研究活動を解釈学的に考察しました

 

「本質」は,それがそれであるために欠かせないものであり,かつ純粋なものですから,いくつもが並び立つものではない(べきではない)。にもかかわらず,それを包括するという,サブタイトルに一見矛盾するヘンテコな言葉を組み込んでいるのがポイントです。

 

とはいえ,社会科という教科のあり方について,何でもかんでも相対化してしまうことは生産的なのでしょうか。とりわけ今日,学校教育現場の多様性や文脈性,教育政策レベルでの自由化・弾力化・規制緩和などの新自由主義的な風潮,学校教育制度のイデオロギー性,権力性,暴力性が指摘されていることに目を向けると,教科の本質について考えることは陳腐に思えてくるかもしれません。

社会科を本質化し尽くし,「こうすべし」というような当為主義でもなく,かといって相対主義でもない。そんなあり方が求められるのではないでしょうか。

 

最近では,思想を社会科教育観,授業観などと言い換えながら,それが何をきっかけに,どのように獲得されたり形成されたりしてきたのかを考えています。社会科を暗記科目だと思っていた学生が何をきっかけに,どういった社会科教育観を持つようになるのか,などといった具合に。

 

こうした思想的・内面的なところと,実際の授業作りや実践の力はどう結びつくのか,つかないのか。ノウハウ的な知識と思想の区別…という点も検討課題です。


社会科教育関係者が集う「場」とは

上記のように,本質論そのもの,優れた授業やカリキュラムそのものだけでなく,それらを構想したり実践したりする「人」に注目するとき,社会科教育はユニークなステークホルダーが集う「場」として見ることができます。

 

大学での教員養成には,私のような社会科教育の研究者だけではなく,地理学者,歴史学者,経済学者,法学者…も関わっています。

 

また,学校現場では,若手の教員もいれば,ベテラン教員もいます。街中の学校での勤務経験が長い人もいれば,農村部での経験が長い人もいます。自分は「歴史」教師だとアイデンティティを持っている人もいれば,社会科は自分が担当する数ある教科の中の一つと考えておられる方もいます。

 

こうした多種多様な人々が,それぞれの持ち味を生かすことのできるコラボレーションのあり方を探っています。